こんにちは。りんご桜です。
2024年11月20日、大相撲のレジェンド、北の富士勝昭(きたのふじかつあき)さんがご逝去されました。
現役時代は「憎らしいほど強い」って言われた、あのダンディでちょっぴり毒舌な北の富士さん。
独特の語り口で、NHK大相撲中継の解説では、私たちファンをいつも楽しませてくれました。
そんな北の富士さんのの死因は?(理由)玉の海と関係は?二人を徹底比較をご紹介します。
北の富士の死因は?(理由は?)
北の富士さんの死因は正式には発表されてません。
1994年の脳ドックで未破裂脳動脈瘤が見つかっていたこともあったそうです。「目の前が真っ暗になり、手術の前に遺書も書いた」と当時を振り返っておられたとか。
未破裂脳動脈瘤は脳の血管にできたコブみたいなもので、北の富士さんも、もしかしたら長く付き合っていたのかもしれません。
直接的な原因ではないかもしれないけれど、この話を聞くと、北の富士さんも色々なことを乗り越えてこられたんだなぁ…と、改めて感じます。
そして、関係者の方によると、亡くなる前1年ほどは心臓のご病気や脳梗塞で入退院を繰り返されていたそうで、11月に入ってから体調が悪化されていたとのこと。
あの元気な姿からは想像もできませんでしたが、晩年はご病気と闘っていらっしゃったんですね。
私たちファンにとっては、テレビでのお姿が最後になってしまいましたが、北の富士さんの相撲界への貢献、そして私たちに与えてくれた数々の名言や笑顔は、決して忘れることはありません。
北の富士勝昭さん、VTR出演!
久しぶりにテレビでお顔を見られた!!
今場所は、東京で大相撲中継を見るそう。〔名古屋場所初日〕 #sumo pic.twitter.com/odTeV5gW28
— くるくるおばけ@ブログ「大相撲取組内容」 (@kuru2obake) July 14, 2024
北の富士・玉の海との関係は?
1970年3月場所から北の富士関と玉の海関は一緒に、横綱に昇格しました。
北の富士と玉の海~「北玉時代」を築いた二人の横綱、その知られざる関係~
1970年3月場所。相撲ファンにとって忘れられない場所となりました。
なぜなら、この場所で北の富士関と玉の海関という、後に「北玉時代」と呼ばれる黄金期を築く二人の力士が、揃って横綱に昇進したからです。
当時の相撲界は、大横綱・大鵬関の存在が絶対的でしたが、この二人の昇進は、新たな時代の幕開けを予感させるものでした。
ライバルでありながら…意外なほどドライな関係?
横綱という最高位に同時に昇り詰めた二人。さぞかし親密な間柄だろうと思いきや、意外にも二人の付き合いは、世間が想像するほど濃密なものではなかったようです。
北の富士さんは、玉の海さんのことを「島ちゃん」、玉の海さんは北の富士さんのことを「北さん」と呼び合っていたものの、所属する一門も異なり、二人だけで食事をすることもなかったと言います。ゆっくりと話をする機会は、年に一度の横綱会の時くらいだったとか。
しかし、北の富士さんは玉の海さんの人となりを、このように語っています。
彼は非常に明るい性格でハキハキ物を言い、よく笑う好青年でした。親孝行で、よくお母さんの話をしていました。酒も飲みませんでした。大酒飲みの北の富士と全て対照的でした。
お互いの性格やライフスタイルは全く異なっていたようですが、北の富士さんの言葉からは、玉の海さんへの尊敬の念が感じられます。
突然の悲劇…早すぎる別れ
「北玉時代」が幕を開けた矢先の1971年10月11日、悲劇が起こります。前年の名古屋場所で全勝優勝を果たし、まさに横綱として脂が乗り切っていた玉の海さんが、急逝されたのです。享年27歳8ヶ月という若さでした。
全勝優勝の裏には、急性虫垂炎の発症という苦しみがありました。しかし、横綱としての責任感、そして控えていた大横綱・大鵬関の引退相撲への思いから、秋場所を薬で散らしながら強行出場。すべての務めを終えて入院、手術を受けたものの、退院予定日の前日、洗面所で顔を洗った直後に心臓発作を起こし、帰らぬ人となってしまいました。
最後の言葉は「胸が苦しい…」。懸命な心臓マッサージも虚しく、若すぎる命は 絶たれてしまいました。
残された北の富士、そして「北玉時代」の記憶
玉の海さんの突然の訃報は、相撲界に大きな衝撃を与えました。間もなく大鵬さんも引退され、玉の海さんと交互に優勝を重ね、「北玉時代」と呼ばれるようになったばかりの二人の時代は、あまりにも早く終わりを迎えてしまったのです。
北の富士さんは、玉の海さんの充実ぶりを「素晴らしく右四つの型は双葉山の再来とも言われたくらいです」と高く評価していました。もし玉の海さんが生きていれば、どのような相撲史が紡がれていただろうか…そう考えると、今でも胸が締め付けられる思いがします。
短いながらも鮮烈な輝きを放った「北玉時代」。ライバルでありながら、どこかドライな関係だった二人の横綱ですが、その土俵上での激闘は、多くの相撲ファンの記憶に深く刻まれています。
北の富士さんと言えば、1970年に横綱に同時昇進した玉の海関を思い出す。玉の海さんは昇進の翌年に急逝し、ファンはもとより、ライバルの北の富士関も大きなショックであったに違いない。
寂しくはありますが、ライバルの分まで人生を全うしたのではと思わずにはいられない。… pic.twitter.com/NjQslaVT2B— ムーミン (@yuri_chan5656) November 21, 2024
北の富士と玉の海。二人を徹底比較!!
北の富士さんと玉の海さんは、同じ時代に活躍し、共に横綱に昇進したライバルであり親友でした。二人の相撲人生を比較してまとめてみました。
生い立ちと入門
玉の海: 詳細な初土俵に関する記述はありませんが、兄弟子に大鵬がいた片男波部屋に所属していました。比較的順調に出世した印象です。
北の富士: 初土俵は1957年1月。上京時の苦労や、一本槍の取り口でなかなか出世できず、屈辱を味わうなど、苦労人としてのスタートでした。
大関昇進まで
玉の海: 大関昇進前に栃ノ海、佐田の山という実績のある大関から金星を奪うなど、実力を見せていました。1966年9月に関脇で11勝4敗の成績を挙げ、比較的スムーズに大関昇進を果たしました。
北の富士: 新入幕で13勝2敗の好成績を挙げ、敢闘賞を受賞するなど、スピード出世を見せました。しかし、スキャンダルや直前3場所の成績が振るわなかったにも関わらず大関に昇進するなど、異例の昇進でした。
大関時代
玉の海: 昇進後一時苦戦しましたが、徐々に安定した成績を残し、優勝も経験しました。しかし、横綱昇進は一度見送られています。
北の富士: 大関時代は九重部屋に移籍し、初優勝を飾るなど活躍しましたが、綱取りはなかなかうまくいきませんでした。
横綱昇進
玉の海: 2度の優勝を経て、1970年1月場所に13勝2敗の成績を挙げ、北の富士と共に横綱に昇進しました。
北の富士: 玉の海より1場所多く優勝していましたが、横綱審議委員会では一度見送られています。1970年1月場所で優勝決定戦で玉の海を破り、玉の海と共に横綱昇進を果たしました。大関在位21場所での横綱昇進は当時最長記録でした。
横綱時代と友情
玉の海: 横綱昇進後も安定した強さを見せ、優勝争いの常連となりました。不知火型の土俵入りを選び、大鵬が指導しました。性格は明るく、「現代っ子横綱」と呼ばれました。北の富士とは性格は正反対でしたが、親友となり、互いをニックネームで呼び合いました。
北の富士: 横綱昇進後も活躍し、玉の海と共に「北玉時代」を築きました。玉の海とは親友であり、お互いを尊重し合う関係でした。
相撲スタイル:
玉の海: 突っ張り、右四つ、寄り、吊り、上手投げなど、多彩な技を持っていました。
北の富士: スピードのある相撲が特徴で、突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛けなどを得意としていました。若い頃は「香車」「ヤリイカ」と揶揄された一本槍の取り口でしたが、後に多彩な技を身につけました。
まとめ
北の富士の晩年と病状:正式な死因は未発表。
1994年の脳ドックで未破裂脳動脈瘤が見つかっていた。
亡くなる前1年ほどは心臓病や脳梗塞で入退院を繰り返していた。
北の富士と玉の海の関係:1970年3月場所に共に横綱昇進し、「北玉時代」を築いた。
「島ちゃん」「北さん」と呼び合う親友だった。
所属一門が異なり、普段の付き合いは意外とドライで、二人で食事をすることは少なかった。
北の富士は玉の海を明るく親孝行な好青年と評し、尊敬していた。
玉の海の早すぎる死:1971年10月11日に27歳8ヶ月で急逝。
前年の名古屋場所で急性虫垂炎を患いながら全勝優勝。
秋場所も強行出場後に入院、退院予定日の前日に心臓発作で亡くなった。
「北玉時代」の終焉と影響:玉の海の死と大鵬の引退により、「北玉時代」は短期間で終わった。
北の富士は玉の海の才能を高く評価していた。
北の富士の相撲人生の比較(玉の海との対比)
生い立ちと入門: 北の富士は苦労人、玉の海は比較的順調。
大関昇進まで: 北の富士は異例の昇進。
大関時代: 共に優勝経験あり。
横綱昇進: 共に1970年1月場所。北の富士は一度見送り。
横綱時代と友情: 共に活躍し親友。
相撲スタイル: 玉の海は多彩な技、北の富士はスピードと多彩な技
いかがだったでしょうか。
玉の海さんが生きていたら…「北玉時代」はどのような歴史を刻んでいただろうか。想像することは叶いませんが、短いながらも鮮烈な光を放ったお二人の存在は、多くの相撲ファンの心に永遠に刻まれています。
このブログが、北の富士さんはもちろん、玉の海さん、そして「北玉時代」の魅力を少しでも多くの方に伝える一助となれば幸いです。北の富士さんたちが残した偉大な功績と、決して色褪せることのない輝きを、これからも語り継いでいきたいと思います